近年沖縄に海底に人工的構造地形が複数確認されています。これらが陸上で形成されてすると、どうして今海中に在るのでしょうか。原因の一つに地殻変動があります。変動は通常、地震・噴火という現象を伴いながら行われます。本会には救急・救命にかかわる方々が大勢いらっしゃいますので、まず以下の点から指摘させていただきたいと思います。

 今年に入って、浅間山の小噴火がありました。今後大噴火にならないか心配されているので、まず、この点から話をさせていただきます。すでに、2000年に今回より大きな噴火がありましたが、今回それより大きな噴火がなければ、それが主噴火(P2)との見方もできます。そうすれば、噴火に関しては心配ありませんが、油断はできません。

 どういう事かというと、噴火と地震の時空関係と地震の目の時系列から、2図のように、付近の大地震(M6.5)発生が推定されるからです。これは単なる私見です。しかしそうは言っても、私(木村)自身それがどの程度信憑性があるか気になります。

図2 浅間山火山活動と付近の地震活動との関係


 3図を見てください。公表されている気象庁のデータを東京大学地震研究所のSeisViewで私が解析したものです。3図は、1995年の阪神大震災の1年前までの通常地震活動を私が2図と同様なデータと解析法により解析し示したものです。これは大地震前の地震の目の活動を示しています。AからBに向かって相対的に大きな地震活動が移動してい



図3 兵庫県南部地震前のサイスミック・アイ(地震の目)の通常地震活動


る様子が読み取れます。Dは、本震1年前の活動です。翌年、D付近からその西(南)側がわれて大地震となりました。

 では、今回はどうでしょうか。図4に最近の目の活動を示します。


図4 現在行われているサイスミック・アイ内の地震活動。


図に示されているとおり、相対的に大きな地震の発生が東から西へ行われています。従来は、本震の予測は、火山活動との関係、地震の目発生時点の2点から推定されていました。しかし、地震の目の活動の移動との関係もそれらに整合的であることがわかりました。


 以下、与那国ほかの沖縄海底遺跡とその調査関係についての最新情報を報告しましたが、それについては以下に講演要旨を示します。ちなみに図1(本ページトップの写真)は、沖縄県北谷沖の海底遺跡の一部です。



2009年2月14日発表抄録 


日本高気圧環境・潜水医学会第10回潜水医学講座小田原セミナー


海底遺跡にかかわる学術調査

木村政昭

特定非営利活動法人海底遺跡研究会理事長

           

本研究会の前身である琉球大学海底調査団結成以来、東京大学海洋研究所・東海大学海洋資源学部・東海大学海洋学部ほかの協力を得て沖縄の海底遺跡調査を行ってきた。今回は、沖縄県与那国島沖と北谷沖海底の構造物について報告する。調査の主体は、通常の圧搾空気使用によるスクーバ潜水による。海底の三次元地形データはマルチナロービーム使用のシーバット音波探査により、関連陸域はレーザービーム測量と空撮により得られた。2002年からは、水中ロボットを用いた調査が行われ、2008年には水中スクーターによる調査も取り入れた。

 これまでの海底調査により、沖縄県の与那国と北谷沖海底には水深40m以浅の海底に石造構造物が存在し,どちらも中心的な構造物は、石壁に囲まれた巨大な城郭の跡と判定された。そして、いわゆる“与那国海底城”の城門前の海底堆積物中の岩片には、石油系溶媒を利用した赤色のペイントと思われる物の付着が確認された。また、その城郭の東で回収された長径70cmほどの石に、牛らしき動物の浮き彫りされた表面に赤褐色の付着物が認められた。非破壊分析の結果、これは彫刻された後の地表での風化物と判断された。どちらもかつては陸の地表面にあったことを示す証拠の発見である。

 14Cおよび10Be年代測定により,与那国の海底城は、今から3,000-2,000年ほど前に、北谷沖のそれは今から2,000-1,000年前頃陸上で造られたと推定される。ちなみに、与那国の陸上延長部に露出した構造物は、10Beや14Cの年代測定の結果、3,000—1,500年ほど前の形成を示し,海底の構造物の年代と整合的である。そしてこれらを支持するように,沖縄本島の4つの海底鍾乳洞内から得られた鍾乳石や貝塚の貝と思われるサンプルの炭素年代も、その頃陸化していたことを支持する結果を示した。


キーワード:潜水調査、与那国海底遺跡,北谷海底遺跡、海底鍾乳洞